漢字のルーツ

亀の腹甲に刻まれた甲骨文字(wikipediaより)
亀の腹甲に刻まれた甲骨文字(wikipediaより)

 現在一番古いとされている漢字は今から3,500年前、中国殷(いん)王朝(BC1,500年~BC1,000年頃)時代、亀の腹甲、牛の肩胛骨などに卜(うらない)の辞(ことば)が刻みつけられました。それを甲骨文字(亀甲獣骨文字の略)と呼び、資料として4,700字余りあり、約3,000字が解読されており、その内1,000字が現在も使用されています。

 中国、上古の人は獣骨や亀甲を火に熱して出来た割れ目によって天意を占って大切なことを断行していたのです。写真はその占いの言葉を刀で刻したものです。

 鋭利な刃物で刻したため直線が多いのですが、それなのにこの文字に温かみがあり、親しみやすいのは当時の人心が純粋であったためでしょうか?

 線状の簡素さ、造形的な美しさは古代人の持つ美意識に感嘆させられます。

 甲骨文字が発見されたのは1899年、清王朝(1616~1912年間)の国子監祭酒(近代以前の最高学府、日本では大学頭)であった王懿栄(オウ・イ・エイ)は、持病のマラリアの治療薬として竜骨が良いとされ、北京郊外の漢方薬剤店から購入していました。ある時、偶然にその骨に何か文字が記されてある事を発見し、驚きとともに持ち帰り識者達を集めて調べたところ、甲骨文字であることが分かりました。

 ところが翌1900年、世界史でも有名な義和団事件が勃発し、日・英・米・露・独・仏・伊・墺の八国は北京に迫った。西太后らと記の実力者はさっさと西安へ逃げてしまい、王懿栄は義勇軍の長官を命ぜられたが、八ヶ国連合軍が北京に入場すると、自害して果てた。

 所蔵の甲骨はその後、羅振玉(らしんぎょく)の手に渡ったが、今度は辛亥革命が起こる(1911年)。翌年に中華民国が成立すると、羅振玉は甲骨コレクションを携えて日本に亡命し、研究を続けた。彼は、甲骨文字の刻まれている竜骨が安陽小屯の出土であることを突き止め、同地を殷王朝の遺跡と推定した。

 出土は黄河流域、河南省で、かなり以前から農民により発掘されていて価値を知らない農民は大部分捨ててしまったと言われています。

 甲骨文字はかなり発達した文字であることから、この文字に先立つ文字があったはずだと、学者達共通の認識になっております。中国歴代皇帝墳墓の発掘が進めばアッと驚く大発見があると確信しています。

書体の変遷

 漢字は象形(しょうけい)文字を核として、更に文化の進展するにつれてこの象形だけでは、思想を記録したり伝達したりすることが不十分なので、いろいろ工夫を重ねて次々と新しい文字が作られて、今日見るような数多くの漢字が長い年月をかけて作られたのです。

 それでは、どうして【かたち】が変化したのでしょうか? より簡単で速く書ける【かたち】を追求したのです。この形を字形、書道の立場からは書体(しょたい)と言っています。

 下図で示したように甲骨(こうこつ)文字・金文(きんぶん)以後の古い順に、①篆書(てんしょ)・②隷書(れいしょ)・③草書(そうしょ)・④行書(ぎょうしょ)・⑤楷書(かいしょ)で漢字の変化は止まりました。

 篆書はそのころ中国大陸各地で使用されていた文字〔大篆(だいてん)〕を秦(しん)の始皇帝は秦の国で使用していた文字を基に標準書体を制定しました。それが小篆(しょうてん)、つまり篆書です。特徴は縦長、丸みの曲線が多く、蛇行し左右対称で刻するのに適しており、現在においては印鑑の字体として使用されていますが、書くにあたり時間がかかります。

 次に隷書(れいしょ)は漢帝国時代の正式文字で篆書での息の長い曲線を寸断し、一画一画独立させ速く書ける文字を求めて創られました。特徴は扁平幅広、横画(よこかく)は水平・縦画(たてかく)は垂直で波磔(はたく)は原則一字の中に一つだけ強調され、その波磔がアクセントとしての効果を発揮します。篆書や隷書は装飾的な文字として使用されています。

 文字を早書きしようとすれば点画(てんかく)を省略し、一字を一筆で書くようになります。こうして崩し書きの書体である章草(しょうそう)〔隷書の略字〕から草書が成立しました。草書は隷書の早書き体から生まれましたが崩し方が分からないと、読めない書けないことから草書を丁寧に書く行書が生まれました。

 草書は明治時代まで手紙を中心とした日常生活で多様されてきましたが、今では芸術としての書として多く使われています。

 行書は現代においても多く使われている書体です。草書・行書は筆を停滞させず、絶えず筆を動かして字形を形成する流動の美です。

 漢代の隷書に代わる正式書体として行書の一点一画をさらに丁寧に正確に書くことで楷書が創られました。【楷(かい)】は法式・規範という意味です。楷書の特徴はトン(起筆)・スー(送筆)・トン(収筆)の原理で筆運びするのです。楷書は均整のとれた理路整然とした文字で、創られてから2000年が経ちますがそれを凌駕する文字が未だに現れていません。それほどまでに完成された素晴らしい文字で現代において最も多く使用されています。

 篆書・隷書は【水平・垂直の原理】、草書は早書きの結果【右肩上がり】、行書・楷書も右肩上がりで右肩上がりになると、字が不安定になることから安定させるために柱となる縦画を強く、シッカリ書くのです。

 終わりになりますが、日本に漢字が伝来したのは西暦285年、朝鮮半島の百済(くだら)王朝から渡来した学者、王仁(わに)博士と官史の阿直岐(あちき)が論語(法律書)10巻と千字文(手習い書)1巻を応神天皇に伝えたとあり、朝鮮語で読まれていました。

 そのころのヤマトの人々は【ヤマトことば】を話していたと言われており、文字を持たない民族でした。

倭(やまと)王朝は朝鮮半島から白村江(はくすきのえ)の戦いで敗れ渡来した数多くの文人や識者たちが中心となり、朝廷の高官たちと力を合せて長い年月と多大な努力で草書から【かな文字<変態かなも含む>】を、楷書から【カタカナ文字】を生み出したのです。そこには、伝来した漢文体をそのまま用いず、漢字とヤマトことばがうまく融合して【ヤマトのアイデンティティー】とも言うべき文字を作り上げ、今日私たちが使っている【漢字かな交じり】の文字へと発展を遂げていったのです。

漢字の組み立て

 点画の起筆・送筆・収筆の太さや大きさは、それぞれが使われる部位や表現効果によって多少の違いは生じるものの、相対的に異なっています。そこで、基本点画の起筆・送筆・収筆を、筆圧による太さや大きさを最大「五」として次に示してみます。

 これらは厳密なものではないのですが、横画は「3~4」、縦画は「5~5」、左払いは「5~0」、右払いは「2~5~0」、反りは「5~3~4~はね」、曲がりは「5~3~5(~はね)」、点(斜め)は「3~4」という目安で捉えることが出来ます。

漢字の不思議

 漢字は象形文字と言われます。既成の漢字を組合わせて作られた会意・形成文字は漢字全体の8割を超えています。

 今、単独文字の字形の大きさを「1」とすると、(図Ⅰ参照)

 複合的に構成されている文字は偏(ヘン)と旁(ツクリ)がありますから、字形的には「1+1=2」になるのですが、限りなく「1+1=1」に近づける必要があります(図Ⅱ参照)。

 楷書はきわめて合理的かつ巧妙に組み立てられています。つまり、字形的足し算「1+1=1」、「1+1+1=1」と言うふうに、二つ或いは三つのものを一つのものに見せている。

 それは、形の変化、すなわち

であります。